ブログBLOG

  • その他
第五章② 人生を変えた事故 ― 喪失と再生への序章
第五章② 人生を変えた事故 ― 喪失と再生への序章

 
■ 新たな道を探して

 
過労で倒れた私は、川嶋チーフの忠告通りに競泳指導から退きました。
幸い、後任はS先輩が引き受けてくれました。

 


 
競泳指導を辞めた後、私は次の目標を探し始めました。
「自分には競泳は向いていない」と悟り、改めて自分の道を模索していたのです。

 
■ 東京での学びと“井の中の蛙”の衝撃

 
そんな時、「水中運動で腰痛、膝痛、股関節痛などのリハビリ指導ができる資格」があると知り、東京で行われるセミナーに参加することを決意しました。
講師は日本三大水中運動指導者の一人と呼ばれた小西薫先生。
小西先生は運動指導はもちろんですが、水中運動と免疫系の研究において多数学術発表もあり、アカデミックな活動もされている先生でした。

感覚的な水泳指導しか知らなかった私にとって、小西先生の学術的な講義は目から鱗の連続でした。

 

 小西薫先生の学術論文
 

さらに、岩間徹先生による「FNC(PNFを応用した運動療法)」の講義も受講でき、
「自分はまだ何も知らない」と痛感。和歌山での“自信”が一瞬で打ち砕かれました。

 

  

  
以後、私は月に一度のペースで東京へ。
交通費も宿泊費もすべて自腹でしたが、「もっと知りたい」という情熱が勝っていました。
──毎月自腹で休みを使った東京まで勉強しに行く私を見て、同期には「頭おかしい」と笑われましたが(笑)。

 
■ 師の退職と、決断の時

 
そんな中、尊敬する川嶋チーフが奥さまのご実家の家業を継ぐために退職。
、益々私は自分の将来を考えるようになりました。

 
今までは憧れの川嶋チーフを追いかけるだけの日々でしたが、その目標はいなくなってしまう訳です。

 
そして、色々と考えた末に私は東京で学びだしたリハビリの知識、技術をもっと突き詰めていこう!と「新しい事を学ぶなら今しかない」と退職して東京で勉強し直す事を決心したのです。
岩間先生が講師を務めていた整体専門学校への進学を決めました。

 
辞表を提出し、退職までの半年間、期待と不安を抱えながら働き続けました。
──そして、ある日のレッスン中。思いもよらぬ悲劇が起きます。

 
■ 忘れられない水の中の出来事

 
それは「タイム級(4泳法を完璧に泳げるのでタイムを競い合うクラス)」のレッスン中のこと。
一人の女の子が、ウォーミングアップ中に突然溺れ、命を落としました。

 
プールの底に足が届く深さ。ビート板を使ったバタ足。

 
それにタイム級というのは4泳法は当然に全て泳げるクラスです。
──通常なら絶対に溺れるはずのない状況でした。

 
しかも、彼女は魚のようにお腹を上にして浮かぶという“異様な”溺れ方をしていたのです。

 
観覧席の保護者の叫び声に私の心臓は早鐘のように鼓動を打ちました。

 
恐怖で身体が震える中を懸命に救命措置をするもむなしく、少女は帰らぬ人となりました。
      
■ 絶望と自己否定の日々

 
後に分かったのは、その子が「てんかん」の持病を隠して入会していたという事実です。


*てんかんとは?→脳の神経細胞の過剰な電気的興奮によって、けいれんや意識障害などの発作が繰り返し起こる慢性的な脳の病気 


当然ですが発作が起きると溺れてしまう危険がある為に、持病としててんかん症状のあるお子様はスイミングスクールには絶対に入会できません。

 

後に分かった事なのですが前任マネージャーが小さい頃に自動車事故で両親を亡くし親代わりだった祖母の強い要望を受け入れて、病名を隠して入会させていたのです。

 
警察の現場検証、病院の集中治療室の前で一晩寝ずに過ごした事、そして祖母からの「一生許さない」という言葉。

 
更にはHマネージャーに、近所の定食屋に呼び出されて非情にも「今回の事は申し訳ないけど、俺にも家族があるので庇い切れない」と通告されました。

 

心身の限界を迎え、私は急性腸炎で倒れ、一週間寝込みました。

 
高熱と嘔吐を繰り返し、食事どころか水すらも取れない中で、ガタガタと震えながら布団の中で、何度も自問しました。


「自分は人を殺したのではないか?」
「これから先、どれだけ努力しても世間に認められないのではないか?」

 
「東京に行っていくら努力したって犯罪者のレッテルが付くなら無駄では無いか?」

 
「そもそも生きていても、この先は何も良い事が無いのでは?」

 
──すべての希望が絶望に変わりました。

 
■ 心と身体の再生、そして“生きる意味”の問い

 
後にこの時の事を当時同じ寮で生活していた同期に聞いた事がありますが、余りに悲惨な状況に誰も声を掛けられない、励ましの言葉も見つからない…そんな感じだったそうです。

 
そうとは知らずに、誰一人として見舞いにも来ない事に対して私は

 

「みんな誰一人として励ましにもくれない」「きっと、こんな私に関わる事も嫌なんだ」

 

「死にたいけど、死ぬのが怖くて死ねない」

 
心は弱り切って、身体も衰弱していた…

 
そんな中である日電話が掛かってきました。

 
なんと、大阪本社の社長が和歌山の私の寮に向かっているという事でした。

 
寮に到着した社長を玄関で迎えたのですが、社長は私をグッと抱きしめながら言いました。

 
「全て私の責任だから、君は心配するな。」

 
その言葉に本当に涙が止まりませんでした。

 
あぁ…誰も庇ってくれない…助けてくれない…と思っていたけど、一番頼りになる人が助けると言ってくれた、心配するなと言ってくれた。

  

社長の言葉から深く安心を得ると不思議なことに体調もみるみる回復していき、「心と身体は繋がっている」と強く実感しました。

 
結果を話すと、刑事・民事ともに私の罪は問われませんでした。


しかし、遺族との示談交渉、仲間からの冷遇、マネージャーの「お前を守れない」という言葉…。
20代半ばの若い私には耐えがたい現実でした。

 
けれども、病み上がりの初出勤の日。
いつも見慣れたはずの和歌山の海岸線が、まるで新しい世界のように輝いて見えたのです。

 
海岸線だけじゃない、花や草木、見慣れていたはずの全ての景色が信じられない位に美しく新鮮に感じたのです。

 

  

 
「自分は生まれ変わったのかもしれない。」

 
映画などで良くあるワンシーンですが…本当にそう感じた瞬間でした。

「こういう事って本当にあるんだな」と他人事のように感じたのは今でもよく覚えています。


そして私は、この事故をきっかけに──
**「生きるとは何か」「何のために生きるのか」**をそれまで以上に真剣に考えるようになっていったのです。

 
そして、何より当たり前の「今この瞬間は今この瞬間しかない」と言う事実の大切さに気付いたのです。

 

  

  
今まで当たり前のように毎日が平和に過ぎて行って、きっとこれから数十年後も当たり前のように平和に毎日が過ぎていくだろうと思っていましたが…

 

そうではなくて、今の当たり前の瞬間は実はかけがえのない大切な瞬間だと気付いたのです。

03-6805-9343
お問い合わせ