こんにちは、おくがわ整体院の奥川です。
突然ですが、身体に加わっている刺激は何も変わっていないのに、相手や状況が分かった瞬間、痛みがほとんど気にならなくなったことはありませんか?
肩こりや腰痛など、身体に痛みがあると、
「このままずっと治らなかったらどうしよう」
と、不安になるのは当然のことです。
ただ、痛みは身体から伝わってくる刺激だけで決まるものではありません。その時の感情や過去の記憶、置かれている状況、そして「何が起きたのか」という自分なりの解釈によって、強く感じることもあれば、反対にほとんど気にならなくなることもあります。
今回は、私自身の少し恥ずかしい失敗談も交えながら、私たちの心が痛みに加える「味付け」についてお話しします。
満員電車で感じた「刺さるような痛み」
以前、雨の日の満員電車で、自分でも驚くような経験をしたことがあります。
その日は湿度が高く、車内はムシムシ。しかも私は、大柄なサラリーマンの方々に囲まれ、押しつぶされそうな状態で立っていました。
私自身も立派なおじさんなのですが、なぜか同類であるおじさんには厳しくなってしまうもので(笑)、
などと、少しイライラしていました。
そんな時、電車がぐらりと揺れた瞬間、私の足の甲に鋭い痛みが走りました。私はとっさに、
「なぜ人の足を踏みつけたまま、平気でいるんだ」
そんな怒りが湧き上がり、それに比例するように、足の痛みもどんどん強くなっていきました。
あまりの痛さと怒りに、「いったい、どんな奴だ」と振り返ってみると、そこにいたのは、おじさんではありませんでした。
満員電車の中で一生懸命に手すりにつかまりながら、うっかり私の足を踏んでしまっていた、小さな女の子だったのです。
それを見た瞬間、私の怒りは一気に消えました。
「転ばないように、必死につかまっているんだな」
そう思った途端、それまで鋭く感じていた足の痛みも、ほとんど気にならなくなってしまったのです。
もちろん、女の子に踏まれているという物理的な事実は、相手がおじさんだと思っていた時から何も変わっていません。
変わったのは、私が目の前の出来事に与えていた「意味」です。
「配慮のないおじさんに傘を刺された」と思っていた時には、痛みに怒りや被害者意識が重なっていました。しかし、「小さな女の子が、揺れた電車の中でうっかり踏んでしまった」と分かった瞬間、その意味付けが変わり、痛みの感じ方まで変化したのです。
40度の部屋は苦痛なのに、85度のサウナは気持ちいい?
もう一つ、私のうっかりミスによる、少し恥ずかしい話があります。
先日、電気代の支払いを忘れて、自宅の電気を止められてしまいました。猛暑の中、エアコンの使えない部屋は、あっという間に40度近い暑さになりました。
と思うほどの苦痛です。
私の整体院はテナントビルに入っているため、勝手に泊まるわけにもいきません。仕方なく、その日は銭湯へ避難しました。そこで、ふと不思議なことに気づきました。
自宅では40度に満たない暑さを「耐えられない」と感じていたのに、銭湯では85度のサウナに入り、
と楽しんでいるのです。
もちろん、自宅の部屋とサウナでは湿度や空気の流れなど、身体を取り巻く条件が違います。そのため、温度だけを単純に比較することはできません。ただ、それだけではない違いもありました。
・いつまで続くのか分からない
・自分のミスでこんなことになった(不安や情けなさ)
・つらくなったら、いつでも出られる
・この後には気持ちのいい水風呂が待っている(安心感と期待)
同じ「熱い」という身体感覚でも、その状況を自分で選んでいるのか、終わりが見えているのか、ある程度自分でコントロールできるのかによって、体験の意味はまったく変わります。
そして、その意味の違いが「苦痛」と「心地よさ」を分けているように感じたのです。
痛みには、さまざまな「味付け」が加わる
痛みは、決して「気のせい」ではありません。
また、「前向きに考えれば痛みが消える」という単純な話でもありません。痛みは、身体の状態だけでなく、注意、記憶、予測、感情、その人が置かれている環境など、さまざまな要素が関係して生まれる体験です。
例えば、誰かに足を踏まれた直後の痛みであれば、
と理由が分かります。
しかし、これといったきっかけもないまま腰の痛みが続き、
「いつ治るのかも分からない」
「もしかしたら、重大な病気なのではないか」
と考え始めると、痛みの周りに「不安」や「恐怖」という味付けが加わります。さらに、
「この動きをすると悪化するかもしれない」
という予測が加われば、身体は必要以上に緊張し、今まで自然にできていた動きまで怖くなることがあります。
つまり、最初にあった痛みに、さまざまな感情や解釈が重なり、痛みを取り巻く苦しさが大きくなってしまうことがあるのです。
神経生理学的に考えてみる「痛みの味付け」
実はこれは、単なる「概念」や「哲学」の話ではありません。神経生理学では、一つの強い刺激に対して、性質の異なる二段階の痛みが生じることがあります。
危険な刺激を素早く伝える痛みです。
主にAδ線維から外側脊髄視床路を通り、視床を経由して大脳皮質の体性感覚野へ伝えられます。
「右足の親指がチクッと痛い」というように、痛みの場所や強さが分かりやすい、鋭く速い痛みが特徴です。
少し遅れて、ジワジワ、ズキズキと広がる痛みです。
主にC線維から脊髄網様体路などを通り、脳幹や視床を経由して、感情や記憶に関係する辺縁系へも広く伝えられます。
そのため、痛みの場所がやや曖昧で、「不快だ」「怖い」「苦しい」といった感情を伴いやすいのが特徴です。
通常、この二つは統合されて一つの「痛み」として感じられます。しかし、薬物を用いた実験や脳の一部を損傷した症例では、「痛いことは分かるのに、不快感や感情的な反応がほとんど起こらない」という現象も報告されています。
つまり、「身体に加わった刺激」と「その刺激によって生まれる苦しみ」は、必ずしも同じものではないのです。
私たちが実際に感じる痛みには、純粋な身体への刺激だけでなく、過去の経験や記憶、その刺激を受けた時の文脈、さらに「これは危険だ」「もっと悪くなるかもしれない」といった概念や思考も関係します。
満員電車で私の足に加わっていた刺激は同じでも、「配慮のないおじさんに傘を刺された」と思った時と、「小さな女の子がうっかり踏んでいた」と分かった後では、その意味がまったく違いました。その意味の違いによって、痛みに加わる感情の「味付け」まで変化したのだと思います。
感情を消すのではなく、まず気づいてみる
私は以前から、僧侶の方に教わりながら、ヴィパッサナー瞑想を実践しています。
これは、湧き上がってきた感情を無理に消したり、何でも前向きに考え直したりするものではありません。
「今、不安を感じている」
「今、身体に痛みがある」
と、すぐに反応する前に、起きていることをそのまま観察してみる実践です。痛みがある時も、
「この痛みは、一生続くに違いない」
と決めつける前に、一度立ち止まってみます。
「そして私は、その痛みに不安を感じている」
「さらに、治らない未来を想像して怖くなっている」
このように、身体の感覚と、その周りに生まれている感情や予測を分けて観察してみるのです。痛みそのものを、無理に消そうとする必要はありません。
と気づくだけで、痛みを取り巻く苦しさが少し和らぐことがあります。
「自分で対処できる」という安心感を持つ
慢性的な痛みに悩んでいる方にとって大切なのは、痛みを完全に避け続けることではありません。
「この程度なら、慌てなくても大丈夫」
「自分の身体の状態を確認しながら動くことができる」
という、自分なりの対処法を持つことです。
そのために役立つのが、自分の身体に合ったセルフケアや身体の使い方を身につけることです。また、痛みの原因が分からない時や、いつもと違う強い痛みがある時には、自己判断だけで済ませず、医療機関で必要な検査を受けることも大切です。
そのうえで、身体の状態を確認しながら、
「どのように動けば、少し楽になるのか」
を一緒に探していく。こうして「何も分からない」「何もできない」という状態から抜け出すことが、痛みに加わる不安や恐怖を和らげることにつながります。
痛みは、身体からの情報の一つ
もし身体に痛みや違和感を感じた時には、その感覚を無視したり、無理に前向きに捉え直したりする必要はありません。ただ、少しだけ立ち止まって、
と考えてみてください。
怒り、不安、恐怖、過去の記憶、そしてまだ起きていない未来への予測。そうしたものが、知らないうちに痛みに濃い味付けをしているかもしれません。
もちろん、すべての痛みが考え方だけで軽くなるわけではありませんし、痛みを感じている人の心が弱いわけでもありません。痛みそのものを、すぐにゼロにできないこともあります。
それでも、痛みと、その周りに重なっている苦しみを少し分けて見られるようになると、身体との向き合い方が変わることがあります。
痛みをただ恐れるのではなく、自分の身体から届いた情報の一つとして受け取り、今できることを探していく。
その積み重ねが、自分の身体を少しずつ信頼できるようになる第一歩なのだと、私は考えています。
ChatGPTとの議論が、思いがけず
ハイレベルでヤバかった(笑)
コラム作成のためにChatGPTと交わした内容が、思いがけずかなり専門的な議論になりました。興味のある方のために、そのやり取りをあまり着色せずコラム化しました。よろしければ、こちらもご覧ください。






